いい写真をとるには、技術も才能もいるが、それにだけでは十分じゃない。
そこに、運が関わってくる。いい写真というものは、自分が撮るというよりも、与えられるもののように思う。
上のこの写真は、新刊の写真集「Futon Daiko: A Japanese Festival」(ふとん太鼓:日本の祭り)に納めた写真の中の一枚で、偶然が重なって生まれたものだった。
撮影当夜、堺市の百舌鳥八幡寓は、月見祭りのクライマックスを迎え、ものすごい人でごったがえしていた。熱気のなか観衆にもまれて、バッグの中のレンズフードは壊れるし、くしゃくしゃになりながら人の波にどんどん流され、気がつけば、最前列から後ろの石灯籠に押しやられていた。
これには、まいった。長時間露出撮影をしたいのに、カメラを長い間、固定して支えることができない。三脚など、とうてい使えない‥‥。それで、たまたま頭上にあった樹齢800年の楠の木の枝を支えていた鉄鋼のI形梁に、腕をのばしてカメラをクランプで固定してみた。
これで、いけるか?と思った矢先、あることに気がついた。カメラの位置が高すぎて、ビューファインダーをのぞけないではないか! どうやって、フレーム構成をしようか?
どういう意味か、カメラの専門知識がない人のために説明すると、フルフレーム撮影というテクニックというかスタイルがある。フィルム全域をひとつの画像としてとらえて撮影することで、あとで写真の一部だけを使うようなことをしない。修正など一切しないこのスタイルは、写真家にとっては常に不安がつきものだが、私はずっとそれでやってきた。
ところが、この晩は、肝心のビューファインダーをのぞいて、フレーム構成を自分の目で確認することできなかった。どんなものが、どんな感じでフィルムに写ってくるかわからないまま、ただ感で、カメラの位置、焦点、露出などを推測して撮影するしかなかった。そして、その結果が上の写真となった。フィルム全域に写っていた画像そのままである。
この写真、自分が撮ったのだろうか? もしかしたら、百舌鳥八幡寓の神様の恩寵をいただいたのかもしれない。いずれにせよ、あの晩、この写真を撮れたこと、いや、おそらく賜ったといったほうがいいのだろうが、とても感謝している。
by William Ash (ウィリアム アッシュ)
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